小金井桜のあゆみ(2)
更新日:2019年6月25日
明治22年(1889)4月11日、小金井の花見にあわせて甲武鉄道が開通しました。それまでは徒歩で1日がかりの花見の行程が、東京から40分程度の近さになり、東京近郊の行楽地として賑わいました。付近の新田農家では、堤に縁台を出して花見茶屋を経営し、経済的にも大いに潤いました。当時の花見風景や玉川上水の様子は、写真等によって知ることができます。
挿絵『風俗画報小金井名所図会』明治39年(1906)
挿絵『風俗画報小金井名所図会』
明治のグラフィック雑誌『風俗画報』337号臨時増刊「小金井名所図会」の巻頭を飾る挿絵です。山本松雲が描く小金井橋付近の花見風景で、橋の手前の桜の大木の下に見えるのは水神の祠、対岸の二階建の建物は柏屋、堤の上には明治35年(1902)に植えられたまだ若い「行幸松」と「行幸松の碑」が見られます。人々の表情も豊かで、明治末期の花見風俗をよく伝える作品です。
手彩色写真「小金井橋の景」明治時代後期
手彩色写真「小金井橋の景」
明治時代中期以降、風景版画(錦絵)に代わって風景写真が普及します。白黒写真に天然色を施した彩色写真帖が主に外国人向けに販売されました。この写真は、そうした写真帖の中の一枚です。小金井橋下流右岸から小金井橋附近を撮影したもので、明治後期の小金井橋付近の様子がよく分かります。堤上の緋毛氈(赤ゲット)を敷いた縁台が印象的です。
手彩色写真「小金井橋の景」明治時代後期
手彩色写真「小金井橋の景」
この写真は、小金井橋下流右岸〈南岸〉から小金井橋方向を撮影したものです。小金井橋は、安政3年(1856)に石橋に架け替えられ、明治10年(1877)に修復されています。上水岸辺の石積みは、明治3年から5年に行われた通船の船溜の埋め立て跡(奥)や水汲み場跡(手前)と思われます。右後方の建物は柏屋で、暖簾に大字で「加しわや」と書かれています。橋の上には多くの花見客、堤には瓢箪を売る人物、大籠と大八車、橋詰には高札や電信柱等が見られます。
手彩色写真「小金井の桜」明治時代後期
手彩色写真「小金井の桜」
この写真は、小金橋付近から上流を写したものと思われます。玉川上水の流れは、ほぼ真っ直ぐで、かなりの水量があります。桜の木の下には、緋毛氈を敷いた縁台があり、手前縁台の上にある箱は、撮影者のカメラバックかもしれません。右手の建物と桜並木との間が五日市街道です。人力車の車夫、花見客の一団がカメラの方に目を向けています。上水の岸辺の杭列は、法面の崩落を防ぐための護岸工事と思われます。
手彩色写真「小金井の桜(東京近郊)」明治後期
手彩色写真「小金井の桜(東京近郊)」
この写真は、新小金井橋のやや上流、玉川上水の左岸のから上流方向を撮影したものです。手前の桜の大木は有名な「日之出桜」です。日之出桜は、赤芽・白色大輪の美しいヤマザクラで、明治36年(1903)に調査に訪れた植物学者三好学も撮影しています。人力車に乗った婦人と車夫、山高帽の男性二人と連れの女性、後の桜の下には、縁台に腰を下ろしている10人ほどの男性の花見客がカメラを意識して写っています。
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